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大阪地方裁判所 昭和51年(ワ)3565号 判決 1983年2月25日

原告

高戸真一

被告

三日月タクシー株式会社

ほか一名

主文

一  被告らは、各自、原告に対し、二七五万六九五九円及びこれに対する昭和四八年二月三日から右支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを八分し、その七を原告の、その余を被告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

原告代理人は、「(一)被告らは、各自、原告に対し、二五〇〇万円及びこれに対する昭和四八年二月三日から右支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。(二)訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、被告ら代理人は、「(一)原告の請求を棄却する。(二)訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。

第二当事者の主張

一  原告ら代理人は、請求原因として、次のとおり述べた。

1  事故の発生

(一) 日時 昭和四八年二月二日午前三時三〇分ころ

(二) 場所 大阪府豊中市神州町一丁目一番一号先国道一六七号線(以下、「本件道路」という。)上

(三) 加害車 普通乗用自動車(登録番号大阪五五あ三八五一号)

右運転者 被告今西康雄(以下「被告今西」という。)

(四) 被害者 原告

(五) 態様 本件道路を横断しようとした原告が、加害車に衝突された。

2  責任原因

(一) 被告今西の責任

一般不法行為責任(民法七〇九条)

被告今西は、加害車(タクシー)を運転して本件道路を進行するにあたり、乗客との雑談に気をとられ、進路前方に対する注意を欠いた状態で制限速度(時速四〇キロメートル)を大きく上回る時速七〇キロメートルの高速度で進行した過失により、本件事故を発生させた。

(二) 被告三日月タクシー株式会社(以下「被告会社」という。)の責任

(1) 運行供用者責任(自賠法三条)

被告会社は、加害車を保有していた。

(2) 使用者責任(民法七一五条)

被告会社は被告今西の使用者であり、被告今西は被告会社の業務の執行として加害車を運転中、前記(一)の過失により本件事故を惹起した。

3  損害

(一) 受傷、治療経過、後遺症

(1) 傷害

脳挫傷、頭蓋底骨折、第七・第八肋骨々折等

(2) 治療経過

昭和四八年二月二日から同年六月八日まで一二七日間林病院、同月一一日から昭和四九年一月一二日まで二一六日間氷見市民病院にそれぞれ入院。同月一三日から同年九月六日まで同病院に通院。

(3) 後遺症

原告は、本件事故による後遺症として、知能の著しい低下(六歳程度)、言語障害等の症状が残つた。

(二) 治療費 五〇万三四二〇円

原告は、前記傷害治療のため、林病院関係分として四七万九四二〇円を、氷見市民病院関係分として二万四三〇〇円を要した。

(三) 入院雑費 一〇万二九〇〇円

原告は、前記三四三日間の入院期間中、入院雑費として一日三〇〇円を要した。

(四) 入院付添費 二五万四〇〇〇円

原告は、林病院における一二七日間に及ぶ入院期間中付添看護を要する状態にあつたため、近親者の付添看護を受け、右期間中付添看護費として一か月二〇〇〇円の割合による損害を被つた。

(五) 休業損害 一七四万〇七三八円

原告は、本件事故当時二四歳の健全な男子で、自動車運転手として稼働し、少なくとも同年齢の男子労働者の平均賃金(年額一〇九万一七〇〇円)の額を下らない収入を得ていたものであるが、本件事故による受傷及びその治療のために、昭和四八年二月二日から昭和四九年九月六日まで五八二日間にわたり休業を余儀なくされ、右平均賃金の五八二日分の収入を失つた。

(六) 後遺障害による逸失利益 三八二〇万三六三三円

原告は、本件事故に遭わなければ昭和四九年九月七日(当時二六歳)以降も六七歳までなお四一年間就労することが可能であり、その間、少なくとも昭和四九年度の二六歳の男子労働者の平均賃金の額(年額一七三万八九〇〇円)を下らない収入を得ることができたはずであるところ、本件事故による後遺障害のため、就労可能な全期間にわたつて、その労働能力を一〇〇パーセント喪失したものであるから、その逸失利益を年別のホフマン式により年五分の割合による中間利息を控除して算定すると、次のとおり三八二〇万三六三三円となる。

(算式)

一七三万八九〇〇×二一・九七〇=三八二〇万三六三三

(七) 慰藉料

(一) 入通院分 一七〇万円

(二) 後遺症分 五〇〇万円

(八) 弁護士費用 四〇〇万円

4  損害の填補

原告は、本件事故に関し、被告会社より四七万九四二〇円、自賠責保険より三九二万円の支払を受けた。

5  よつて、原告は、被告ら各自に対し、前記3の(二)ないし(八)記載の損害額合計五一五〇万四九九一円から、前記4記載の填補額合計四三九万九四二〇円を控除した残額四七一〇万五五七一円のうち二五〇〇万円及びこれに対する本件事故発生の日の後である昭和四八年二月三日から右支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  被告ら代理人は、請求の原因に対する答弁として、次のとおり述べた。

1  請求原因1記載の事実は認める。

2  同2の(一)記載の事実は争う。

3  同2の(二)の(1)記載の事実は認める。

4  同2の(二)の(2)記載の事実のうち、被告会社が被告今西の使用者であること、被告今西が被告会社の業務の執行中に本件事故を惹起したことは認めるが、その余は争う。

5  同3の(一)記載の事実のうち、原告が本件事故により何らかの傷害を負つた事実は認め、その余は争う。

なお、原告は、入院中から相当複雑なプラモデルを製作し、退院後はバスを利用して一人で病院に通院し、その後、大阪府豊中市内のアパートで一人暮らしを始めてからも、新聞を購読し、自分で買物等をする生活を送つているのであつて、原告の知能が本件事故後六歳程度の水準にまで低下したとは到底考えられない。

6  同3の(二)の記載の事実は認める。

7  同3の(三)ないし(八)記載の事実は争う。

なお、原告は、逸失利益の主張に関し、本件事故当時自動車運転手として稼働していた旨主張するけれども、原告は本件事故当時自動車運転免許証を有していなかつた。

また、原告は、本件事故による後遺症のためにその労働能力を一〇〇パーセント喪失した旨主張するけれども、原告は昭和四九年四月ころから同年暮れごろまで氷見市内にあるヤンマー農機具の販売代理店に勤務し、昭和五一年春ごろからは事故当時に勤めていた大阪軽貨物配送株式会社に勤務するようになり、荷物の運搬等を行つて一か月六万円強の収入を挙げていたのであるから右主張は失当である。

8  同4記載の事実は認める。

三  被告ら代理人は、抗弁として、次のとおり述べた。

1  過失相殺

本件事故の発生については、深夜である午前三時三〇分ころ、幅員一二メートル強、片側二車線の幹線道路であり、歩道と車道との間には鉄柵が設置されている本件道路を横断するに際し、原告は、酒に酔つていたこともあつて、左右の安全を確認することなく、しかも、横断歩道外の横断歩道からわずか約二一メートル程しか離れていない場所を横断しようとした落度があるから、原告の損害額の算定にあたつては、過失相殺がなされるべきである。

2  時効

本件事故は昭和四八年二月二日発生したものであり、右の日から本訴提起時(昭和五一年七月一五日)までに既に三年を経過しているので、被告らは、本訴において右時効を援用する。

四  原告代理人は、右抗弁に対する答弁として、「争う。」と述べた。

第三証拠〔略〕

理由

一  事故の発生

請求原因1記載の事実は当事者間に争いがない。

二  責任原因

1  被告今西の責任

前記一の事実に、成立に争いのない甲第一号証、乙第一ないし第五号証、被告今西康雄本人尋問の結果に弁論の全趣旨を併せ考えると、次の事実が認められる。

(一)  本件事故現場は、豊中市内をほぼ南北に通じる本件道路の豊中市神洲町一丁目一番一号先路上で、現場付近の本件道路は、別紙図面のとおり、直線かつほぼ平たんの、歩車道の区別のあるアスフアルト舗装道路であり、車道は、同図面のとおり、センターラインによつて南北各行車線に分けられ、さらに、南北各行車線は車両通行帯境界線によつて二車線に区分されていたが、北行第一車線(歩道側)の幅員は二・九五メートル、北行第二車線(車道中央側)の幅員は三・一〇メートルであつたこと、東西両側の歩道上の車道側には、同図面のとおり金属製の柵が設置されていたが、本件事故現場の西側付近には、ボウリング場の駐車場に出入する自動車の通行のために鉄柵が設置されていない部分があつたこと、本件事故現場の南方約三〇メートルには信号機による交通整理の行われている交差点(新三国橋北詰交差点)があり、交差点の東西両側の本件道路上には幅員各四・〇メートルの横断歩道が設置されていたこと、現場付近の最高速度は時速四〇キロメートルに規制されていたこと、なお、事故当時、路面は乾燥しており、深夜であつたため、本件道路北行車線の交通量は少なかつたが、東西両側の歩道上にある街燈等の照明によつて、現場付近は幾分明るかつたこと。

(二)  被告今西は、加害車(タクシー)を運転し、阪急電鉄十三駅付近で乗客を乗せ、豊中市庄内方面へ向かう途中、時速約七〇キロメートルの速度で本件道路北行第二車線を北進して現場付近に至つたこと、被告今西は新三国橋北詰交差点の約一〇〇メートル南側の地点(別紙図面<1>の地点)で同交差点の対面信号が青色を表示しているのを認め、乗客に進行方向を尋ねたうえそのまま同交差点を直進したが、同交差点を渡り切つた同図面<2>の地点で、進路前方約二五メートルの本件道路上を西から東に向けて動く原告の人影を認めたので、衝突の危険を感じ、直ちに急制動の措つたが及ばず、同図面<3>の地点で加害車左前部を原告に衝突させ、同図面<4>の位置に加害車を停車させたこと、なお、衝突地点と新三国橋北詰交差点の北側横断歩道との距離は約二二メートルであつたこと。

(三)  原告は、衝突の衝撃により跳ね飛ばされ、衝突地点より約一五メートル北方の本件道路北行第二車線上(別紙図面<ハ>の位置)に頭部を北西の方向に向けて転倒したこと、原告は、事故当時、相当酒を飲んでいたこと。

以上の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

右認定事実によると、被告今西は、加害車を運転して本件道路を北進するにあたり、最高速度を遵守し、前方を注視して進路の安全を確認しつつ進行すべき義務を怠り、最高速度を大きく上回る時速七〇キロメートルの高速度で進行した過失により、本件道路を横断しようとする原告の発見が遅れ、本件事故を発生させたものと認められる。

したがつて、被告今西には、民法七〇九条により、原告に対し、本件事故によつて生じた後記損害を賠償する義務がある。

2  被告会社の責任

請求の原因2の(二)の(1)記載の点は当事者間に争いがないので、被告会社は自賠法三条により、原告に対し、本件事故によつて生じた後記損害を賠償する義務がある。

三  損害

1  受傷、治療経過、後遺症

(一)  成立に争いのない甲第六、第七号証、同第一〇ないし一四号証、乙第六、第七号証の各一、二、同第八ないし第一〇号証、弁論の全趣旨により成立を認められる甲第二ないし第五号証、同第九号証、同第一五ないし第二六号証、乙第一一号証、同第一四号証、証人水尾直義の証言により被告ら主張のとおりの写真であると認められる検乙第一号証の一ないし三、証人高戸みな、同大西幸一、同清崎克美、同大坪昭子、同中西義明、同水尾直義の各証言、原告、原告法定代理人後見人の各本人尋問の結果及び鑑定の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。

(本件事故前の原告の生活歴)

(1) 原告は、昭和二三年五月二四日、富山県氷見市で小作農を営む父母の間の長男として生れ、その約三年後に妹が、また、その約六年後に弟がそれぞれ生れたこと、やがて、原告は、地元の小中学校へ進み、昭和三六年三月には氷見市立余川小学校を、昭和三九年三月には氷見市立北部中学校を卒業したこと、小、中学校在学中の原告は器用なところがあり、機械をいじるのが好きではあつたが成績は芳しくなかつたこと、幼、少年時代を通じて、原告には特記すべき精神身体疾患の既応症はないこと。

(2) 原告は、中学を卒業後、父方の親族の高戸時則(以下、「時則」という。)を頼つて来阪し、同人の経営する布団やシーツなどのクリーニングを行う会社で約一年間働いたこと、その後、七か月同じ会社の東京の営業所で働いたのち、同社を辞め、都内の製本屋、菓子屋などを転々としたが、いずれも長続きせず、郷里氷見市に戻つたこと。

(3) しかし、原告の父母は、細々と農業を続ける傍ら日雇仕事をして一家の生計を立てていたので、原告も母方の叔父と共に出稼ぎに出、以後、新潟県下、富山県下の建設現場を転々とし、建設労務者として生コンクリート等を扱う仕事に就いたこと、ところが、原告は、富山県下で日雇仕事に従事していた昭和四一年六月二日単車を運転中、操作を誤つて道路脇のブロツク塀に激突する事故を起こし、一時意識を失つたうえ、左上肢骨折、左大腿部挫創の傷害を負い、約一〇か月間高岡市の神山病院に入院したこと、この事故による外傷は格別後遺症も残さないまま治癒し、体の動きそのものは円滑で、視力も、両眼の裸眼視力は〇・九程度あつたこと。

(4) 原告は、右病院退院後、氷見市に帰り、同市内の農機具販売店に勤め、農機具の修理等の手伝いをしていたが、この間、氷見自動車学校に入校して、普通免許を取得しようとしたところ、実技試験には直ぐに合格したものの、学科試験で何度も落ち、昭和四四年一月一〇日ようやく右自動車学校を卒業したこと。

(5) 原告は、昭和四四年初旬、再び職を求めて来阪し、建設労務者として万国博覧会の会場建設等に従事した後、自動車運転手として働くようになり、当時、「島田商店」の商号で運送業を営んでいた島田眞佐宏(原告法定代理人後見人)と知り合つて親しくなり、住居も当時の島田の住居の近くに移し、次第に頻繁に島田方に出入りするようになり、原告も、島田の弟と同じように島田の妻に食事や洗濯等の身の回りの世話をしてもらつていたこと、原告は、同年六月末ころから、右島田商店で自動車運転手として働くようになり、建築現場の鋼管等の運搬等に従事し、時には、大阪府下から広島県下まで一人で荷物を運送する仕事を委されるまでになつたこと、仕事の面では、格別大きな失敗をしたことはなく、原告の仕事振りに関して得意先から苦情が出たこともなかつたこと、昭和四七年、積載物重量制限超過等の反則行為で二か月間の免許停止処分を受け、やむなく同年三月から大橋包装株式会社に勤め、包装紙の裁断等に従事していたが、同社が倒産したので、昭和四八年一月島田商店を買収した大阪軽貨配送株式会社(以下「大阪軽貨配送」という。)に入社したこと、原告は、大阪軽貨配送に入社前の昭和四七年一二月、飲酒運転で、免許取消処分を受けていた関係で、同社入社後は運転助手として運転手の指示に従い荷物を積み下ろす作業に従事していたこと、なお、原告は、昭和四四年に来阪した後、郷里の実家へ仕送りをしたこともあつたこと。

(本件事故による受傷、治療経過)

(6) 原告は、本件事故により、脳挫傷、頭蓋底骨折、顔面挫傷、顔面(右眼窩部)骨々折、胸部打撲(第七、八肋骨々折)の傷害を負い、直ちに、豊中市内の林病院に搬送されたこと、同病院における初診時の状況は、脈拍は規則正しかつたが、瞳孔は、両眼とも散瞳し、対光反応は、右眼は消失、左眼も極めて弱い状態で、左上肢の働きは少なく左下肢もほぼ静止し、意識を失い、呼吸も困難というものであり、生命の危ぶまれる状態であつたこと、そこで、同病院は、創傷の処置を行う一方、酸素吸入下で気管切開術を実施し、各種薬物の投与を行つたこと、そのため、原告は、約三週間の昏睡状態が続いたものの、二月下旬には、意識も明瞭になるに至つたこと、しかし、この頃以後、原告には、見当識の欠如、左上下肢の不全麻痺、右眼の視力低下がみられるようになり、脳波検査の結果でも、四月六日では、脳機能の活動良好とされながら、五月一一日では、両前頭部の脳機能の低下が指摘されていたこと、同病院では、原告のこれら症状に対応して、順次機能回復訓練を行い、その結果、原告は、同年五月に入つた頃から独立歩行を試みるまでになり(もつとも、当初は、歩行はもとより食事や用便についても介護者の手助けを借りて行つていた。)、次第に回復し、同年六月八日に同病院を退院したこと(同病院での入院期間は一二七日である。)

(7) 原告は、昭和四八年六月一一日、母親に付き添われて氷見市市民病院に赴き、主治医の清崎克美医師に交通事故による受傷の結果、頭痛、知能低下、左半身運動障害の症状が残つた旨訴えたこと、同医師は、診察の結果、左半身の運動機能の低下、腱反射の亢進、計算力の欠如等の症状を認め、直ちに原告を入院させたうえ、脳機能回復、促進を図る薬物の投与を行う一方、同月下旬ころからは、左半身機能回復訓練を実施したこと、その結果、<1>昭和四八年六月二〇日、同年九月五日実施された脳波検査ではいずれも異常は認められず、また、<2>左半身の運動機能障害そのものは顕著に改善され、握力検査でみてみても、昭和四八年七月二〇日には右三四・五キログラム、左一四キログラムであつたものが、昭和四九年六月二五日には右四八キログラム、左三八キログラム、同年八月三一日には右五七キログラム、左四四キログラムにまで改善されたこと、しかし、<3>昭和四九年三月三〇日に行われた指し指試験、指し鼻試験の結果では脊椎性運動失調の傾向が認められ、<4>裸眼視力の検査の結果昭和四八年一〇月一八日では右眼〇・一、左眼〇・八、昭和四九年一月一〇日では右眼〇・一、左眼一・二で、右眼に視野狭窄が認められたこと、もつとも、原告は、同病院入院後わずか一二日目から外泊したのをはじめ、しばしば外泊し、帰院予定の日に病院に戻らなかつたことや、許可なくベツドを離れるなど療養態度に問題もあつたこと、そこで、清崎医師は同年八月二二日には外泊前後の原告の病状の観察等に基づき、退院を勧告したが、原告から入院維持の希望があつたので、同年九月二九日大部屋の病室に移したこと、ところが、原告は、病室でしばしば酒や煙草を嗜み、飲酒が過ぎて泥酔することもあつたため、昭和四九年一月一二日強制的に退院させられたこと(同病院での入院期間は二一六日である。)、その後、原告は同年一月一三日から同年九月六日までの間に六一日同病院に通院したこと、ところで、原告の具体的な日常生活をみてみると、入院中、すでに食事、着替等に不自由はなく、外泊の際には、バスを乗り継いで自宅に戻り、外泊許可願の書面を自分で作成していたこと、また、好きなプラモデルの製作も行つていたし、通院中もバスを利用して殆んど一人で病院まで行き来し、昭和四九年四月ころからは市内の農機具販売店で働き、一か月五万円程度の給料を受け取るようになつていたこと。

(治療終了後の稼働状況)

(8) その後、原告は、島田の誘いによつて、再び来阪し、同人方に寄食し、島田と同人の上司である大西幸一(以下「大西」という。)の口添で再び大阪軽貨配送株式会社で働くようになつたこと、大阪軽貨配送では、クレーンの運転士の助手としてクレーンを利用して鋼管、鉄板等をトラツクに積み込む作業を手伝い、鋼管等に巻きつけられたワイヤーにクレーンの鉤を引つ掛ける玉掛け等の作業を行つていたこと、なお、昭和五〇年秋には、鉄板をトラツクの荷台に積み込む作業中に鉄板が揺れて原告の足首に当たるという事故があり、原告は左足首を骨折し、約二〇日間豊中市内の外科病院に入院したが、その後再び職場に復帰したこと、原告は、その後の昭和四九年の暮れころからは島田方を出て同人方の直ぐ近くのアパート(豊中市豊南町四丁目一三号、淀川アパート寺本賢次方)に住むようになり、食事や洗濯については、従前同様島田の妻が面倒をみてきたこと。

(9) 原告は、昭和五四年一二月二六日、大阪軽貨配送を辞めたこと、前記大西は、退職した当時の原告の仕事振りは本件事故後、職場に復帰したころに比し、相当良好なものとなつたと述べていること、なお、原告が同社に勤めていた昭和五三年中に原告に支給された給与の額は一か月当たり六万七〇八七円から一三万〇九四四円であつたこと、その後、原告は、一時、神戸市内で労務者として働いたこともあつたが、昭和五五年一〇月一〇日、母親に連れられて郷里に帰り、以後、実家の近くの坂下鉄工所で働いていること、坂下鉄工所では、原告について、仕事は遅いが真面目で、器用さも十分であると評価していること。

(後遺症)

(10) 氷見市民病院清崎医師は、原告の通院終了時点(昭和四九年九月六日)の症状としては、一応知能障害、視力障害、左上下肢の運動障害が認められるけれども、知能障害については、本件事故前の知能の程度が定かでないので、その点の検討を経なければ判断は難しい旨の見解を明らかにしていること。

(11) 林病院林敏夫医師は、

<1> 昭和四九年九月九日付自賠責保険後遺障害診断書において、同病院入院中のカルテのみを資料として、「昭和四八年六月八日富山県氷見市民病院に転医の為以下不詳」「就労能力の低下ありと認めるも不詳」と記していること。

<2> 昭和四九年一一月一四日、前記大西に伴われて来院した原告を診察したうえ(治療は行つていない。)、同日付自賠責保険後遺障害診断書を作成し、自覚症状と他覚症状を区別することなく、「(イ)、智能著明に低下。ごく単純な軽作業しか出来ない。いつも笑つている。数の計算は全く出来ない。身辺の整理は全く出来ない。ほぼ6歳程度の智能である。(ロ)、言語障害あり。(ハ)、筋力は強力であるが、精神的コントロール不能。階段の昇降は出来ない。荷物の五キログラムまでしか持てない。(ニ)、脳波両前頭部の脳機能低下著明」と記載し、さらに「右視力低下がある模様、検査不能、瞳孔反射は正常」、「右上肢、下肢の反射亢進あり、左上肢、下肢低下」と記したうえ、「これ以上回復の見込み薄し」と記していること、もつとも、同日原告に新たに脳波検査等を実施した形跡はなく、脳波については昭和四八年五月一一日の検査結果を指摘したにすぎないこと。

(12) 前記島田、大西らは、原告を代理し、昭和四九年一一月二一日、前記(11)の後遺障害診断書等により、自賠責保険に対し被害者請求を行つたこと、同月二六日右請求を受信した梅田調査事務所は、原告に再診断を指示したこと、そこで、原告は、昭和五〇年一月二五日、大阪市立桃山市民病院整形外科外来で受診したこと、同科井本忠医師は、同日付自賠責保険後遺障害意見書を作成したが、同意見書の、傷病名欄には「頭部外傷後遺症と、主訴等欄には「知能低下」と、検査成績等欄には「反応鈍化。表情動かず。歩行はゆつくりたしかめるよう。当科への交通機関当日乗つた駅その他返答できず。名前は漸次小さくなる記載。常人の四倍ぐらいの時間で可能。命じた動作は可能。数の計算全くできない。しかし、常時介護の必要なし。労働は軽易な労働可能。しかし、命じられた一つの動作しかおこなわず判断力は欠除。」と、日常生活及び就労能力に支障を来す程度についての所見欄には「身体的に神経障害なし。知能低下のみが後遺症として残り、故に自らは後遺症の苦痛も全く訴えない。重度の精薄の様相を呈している。身体として身の回り動作可能でも、他人が常時付き添つて指示が必要。」と、予後についての所見欄には「回復見込なし。」と、「労災保険三級三号に該当する。」との記載があること、もつとも、同医師は、精神神経科の専門医ではなく同科の諸検査、心理、性格、その他のテスト等を行うことなく、専ら問診によつて、前記意見書の作成に当つたこと、ところが、同事務所は、同医師の意見書により、原告の知能低下ありとして、後遺障害等級表三級三号に該当すると査定したこと。

(13) 他方、原告の母親みなは、島田の助言に基づき、昭和五一年に原告に対する禁治産宣告の申し立てを行い、右申立を受けた大阪家庭裁判所家事部は同裁判所医務室坂本昭三医師に原告の精神状態、判断能力等に関する鑑定を命じたこと、同医師は、古屋診療所古屋頴児医師に脳波、頭部レントゲン検査を依頼する一方、同年九月二七日、一〇月一四日、一一月二七日原告の鑑定診察を行つたが、生活歴、日常生活面での資料は、専ら島田、大西の供述によるものであり、みなの供述は得られなかつたこと、同医師は、昭和五二年二月一七日付鑑定書を作成したが、その大要は、次のとおりであること、まず、身体的所見として、<1>指し指試験はやや拙劣で運動失調を疑わせ、指し鼻試験では、左は運動失調様であり、上肢の腱反射はほぼ左右同大で軽度亢進が認められ、膝蓋腱反射は亢進し、右側が左側より軽度高いとされたほか、原告の歩行状況は鶏歩に似た歩き方で、軽度失調性で歩行障害があり、原告の言葉には軽度の構音障害があるとされていること、<2>頭部レントゲン単純撮影においては特記すべき所見は認められず、脳波結果では若干の異常脳波が認められたものの、脳波上の異常は軽度であつたこと、次に、精神的所見として、<1>職歴、本件事故、計算における問答、<2>WAIS成人知能検査での言語検査の一部の援用による問答、<3>クレペリン精神作業検査、<4>文章完成テストを実施し、そのうち、<2>ないし<4>の結果から、知能が非常に低く、IQ六〇以下、知能年齢七、八歳以下と推定したうえ、前記島田らの面接聴取事情も加味し、原告には、頭部外傷後遺症として痴呆、健忘、自発性の低下等の精神異常と運動失調症の症状が残り、右症状のために、原告の事理の弁別判断能力が著しく低下し、社会生活を独立して営むことが困難な状態であると結論付けていること、大阪家庭裁判所は、右鑑定書等を参酌したうえ、昭和五二年九月二〇日、原告を禁治産者とし、島田を原告の後見人とする旨の審判を行つたこと。

(14) 鑑定人乾正は、原告の知能程度等の鑑定を行つたが、その概要は、

<1> 心理テスト

(イ)WAIS知能診断検査では、言語性IQは61、動作性IQは69、全検査IQは62で、一般に軽愚と呼ばれる知能障害に属し、九歳一一月程度の知的水準とされていること、(ロ)内田、クレペリン精神検査(一桁の連続加算作業)では、計算結果こそ正確であつたが、単純精神作業の速度は相当遅く、精神作業能力が低いとされていること、(ハ)ロールシヤツハテストでは、総反応数は少なく、また反応までに長い時間を要したことから精神内界の貧困さ、機敏性、知能活動性の欠如が指摘されていること、そして、これら各テストの結果を総合すると、原告は、単純な労働に就く能力を有し、ことに具体的、即物的な知能の側面では比較的高い能力を持つが、抽象的思考力や計数能力の面で著しく劣つているとされたこと。

<2> 身体的検査

(イ)脳波検査では、特記すべき異常は認められないこと、(ロ)脳CT検査では、脳実質の軽度の萎縮と右側頭葉萎縮が認められてはいるが、その程度は軽く、必ずしも病的意義があるとはいえないとされていること、(ハ)神経学的検査では、中枢神経系の異常は認められなかつたが、右視神経萎縮による視力低下が認められ、昭和五七年三月一日に狩野眼科医院において行われた視力検査の結果によると、左眼裸眼視力は〇・二、矯正視力は一・二であつたのに対し、右眼の裸眼視力は〇・一、矯正視力は〇・三であり、この視力低下は不可逆的なものであり、今後改善される可能性はないとされていること、そして原告の動作は緩慢でぎこちなく、拙劣で、歩行も円滑でないとされていること。

<3> これらの所見に基づき、同鑑定人は、原告には、(イ)精神医学的見地では、知能障害があり、その程度は、いわゆる軽愚に属すること、また、(ロ)身体医学的見地では、右視神経萎縮とこれに伴う視力低下があること、右(イ)については、母みなが鑑定人との面接に際し、「最近の原告の状態は、目が不自由になつたこと、動作が鈍くなり、体の動きがぎこちなくなつたこと、物忘れしやすくなつたことを除いては、本件事故前の状態と大差はない。」と述べていることや、鑑定人の臨床的経験からは、原告の動作、話し方精神内界の平板さ、貧困さなどは生来性の精神的遅滞者の印象と同質であり、いつたん正常水準まで発達した知的能力が脳に加わつた何らかの侵襲により低下した痴呆患者のそれとは異なること、知能テスト等テスト結果で得られた評価点は、全て一様に低く、全IQとほぼ同レベルにあり、これは原告の知的能力がいつたん正常水準まで到達したものではないと推測させることのほか、本件事故による頭部外傷により脳に対し強い影響が加わつたと考えられるにもかかわらず、各種身体的検査によつても脳の器質的或いは機能的異常の存在を示す病的な異常所見が見受けられなかつたこと等を根拠にして、原告の知能障害は、本件事故以前から存在し、本件事故による頭部外傷に伴う知能の著しい低下は認められないこと、右(ロ)については本件事故による受傷の後遺症と考えられること等を明らかにしたうえ、原告の今後の就労可能性について、今後単純な労働に従事することは十分可能である、との意見を述べていること。

以上の事実が認められ、<1>証人高戸みなの証言中には、原告の学校の成績が普通であつた旨の、<2>鑑定の結果中には、原告がバイクを運転中にブロツク塀に衝突する事故を起こしたのは原告が普通免許を取得した後である旨の、また、<3>原告法定代理人後見人島田眞佐宏の尋問結果中には、原告が、本件事故前の昭和四八年一月ころ、阪急百貨店関係の品物を運送する仕事を一人で行つていた旨の、さらに<4>証人水尾直義の証言中には、原告が歩く際に跛行するのは郷里で起こした単車事故の後遺症であると原告から聞いた旨の供述ないし供述記載が存するけれども、前顕各証拠に照らし、いずれも信用することができないし、他に、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(二)  以上の認定事実によると、本件事故と原告の後遺症状の関連性については、次のとおり解するのが相当である。

(1) 原告の本件事故による受傷のうち、頭蓋底骨折、顔面挫傷、胸部打撲については、林病院入院中に何らの症状も残さず完治したが、脳挫傷、顔面右眼窩部骨々折については、前記入通院治療にもかかわらず、知能の低下、右眼視力の低下、左上下肢の機能障害を招来したと考えられる。

(2) そして、知能の低下についてみると、前記(一)の(1)ないし(8)及び(10)ないし(14)認定の諸事実に鑑みると、原告は、本件事故前すでに知能程度は相当程度低く、しかも、事故後も、脳の器質的あるいは機能的異常を示す他覚的所見は明確でないとはいえ、事故前に比し物忘れが多くなり、動作が緩慢になるなどの知能の一層の低下をうかがわせる徴候もうかがえるうえ、本件事故時の頭部外傷の程度、受傷後の症状の推移、ことに意識喪失、意識混濁状態が長期に及び、見当識等の低下も見受けられたこと等をも参酌すると、自賠責査定の如き著しい知能低下を肯定するわけにはいかないけれども、相応の知能への影響は否み難いところといわなければならない。また、右眼視力の低下は視神経萎縮に基づくもので、相当程度改善されたとはいえ残存する左上下肢の機能障害と相俟つて、原告の日常の起居動作を緩慢なものとしていると考えられ、これらの諸症状は、今後改善の余地はないとみられる。

2  治療費 五〇万三四二〇円

請求原因3の(二)記載の事実は、当事者間に争いがない。

3  入院雑費 一〇万二九〇〇円

前記三の1の(一)で認定した原告の入院期間等を考え併せ、経験則によると、原告は、入院雑費として、少なくとも、その主張にかかる一〇万二九〇〇円を要したことが認められる。

4  入院付添費 一五万二四〇〇円

前記認定の林病院入院中の原告の病状及び前記甲第二号証、証人高戸みなの証言に弁論の全趣旨を併せ考えると、原告は、林病院入院中、付添看護を要す状態で、職業付添婦のほかに、医師の指示もあり、家族、主に母みなが付添つていたこと、付添婦の費用は被告側から支払われたことが認められるので、原告は、右入院中、近親者付添分として経験則上一日一二〇〇円の割合による合計一五万二四〇〇円の損害を被つたことが認められる。

5  逸失利益

(一)  前記1で認定した事実によると、原告は、昭和二三年五月二四日生で、本件事故当時の収入は詳らかとはいえないけれども、知的能力はともかく、身体的能力に格別欠陥はなく、その職業の性質に照らし、原告主張の同年齢の男子労働者の平均賃金程度の収入を挙げ得たものと推認し得る。そして、賃金センサス第一巻、第一表、産業計によると、昭和四八年は男子労働者二〇歳ないし二四歳の年収は一〇九万一七〇〇円であり、昭和四九年男子労働者二五歳ないし二九歳の年収は一七三万八九〇〇円である。

(二)  休業損害

(1) 昭和四八年二月二日から昭和四九年三月末日まで 一二六万五一七五円

前記1で認定した原告の受傷、治療経過によると、右期間中は全休状態にあるのもやむを得ないと認められるから、被告らに賠償を求め得る損害は、この間の得べかりし収入の全額であり、次のとおりで、右金額となる。

(算式)

一〇九万一七〇〇÷三六五×三三三=九九万五九八九(円未満切捨て。以下同じ)

一〇九万一七〇〇÷三六五×九〇=二六万九一八六

(2) 昭和四九年四月一日から同年九月六日まで 二三万七七八一円

前記1で認定した事実によると、この間、原告は氷見市民病院に通院する傍ら、村田氏の営む農機具販売店で働き、給料を受け取つていたものであるから、公平の原則に照らし、被告らに対し賠償を求め得る損害は、右期間の得べかりし収入の五〇パーセントに当たる額を以て限度とすべきものと考えられるから、次のとおりで、右金額となる。

(算式)

一〇九万一七〇〇÷三六五×一五九×〇・五=二三万七七八一

(三)  後遺障害による逸失利益 九五五万一〇八二円

原告には前記1で認定、説示した後遺障害が残存しているところ、本件事故後の原告の生活状況、鑑定を行つた乾医師の所見等を総合すると、原告は、右後遺障害のため氷見市民病院で治療を受けた最後の日である昭和四九年九月六日(当時、原告は二六歳である。)の後、六七歳まで四一年間にわたり、その労働能力を少なくとも二五パーセント程度喪失するものと認められるから、原告の後遺障害による逸失利益を年別のホフマン式により年五分の割合による中間利息を控除して算定すると、次のとおりで、右金額となる。

(算式)

一七三万八九〇〇×〇・二五×二一・九七〇四=九五五万一〇八二

6  慰藉料 二〇〇万円

前記認定の本件事故の態様、原告の傷害の部位、程度、入通院の経過、残存した後遺症の内容、程度その他一切の事情を考えると、右金額を相当と認める。

四  過失相殺

前記一で認定した事実によると、本件事故発生については、原告にも、夜間、飲酒のうえ、信号機の設置のある交差点の横断歩道から約二一メートル離れた本件道路上を、左右の安全を確認することもないまま横断しようとした過失が認められる。そして、右原告の過失の内容、程度と前記認定の被告今西の過失の内容、程度、本件事故の態様、当時の道路状況等諸般の事情を考慮すると、過失相殺として、原告の損害の五割を減ずるのが相当と認められる。

そして、過失相殺の対象となる損害額は、前記三で認定したとおり一三八一万二七五八円であるから、これから五割を減じて原告の損害額を算出すると、六九〇万六三七九円となる。

五  時効の主張について

被告両名は、原告の被告らに対する損害賠償請求権は、原告が本訴を提起するまでに既に消滅時効が完成しているから、本訴において右時効を援用する旨主張するので検討するに、前記三の1の(一)で認定した原告の本件事故による受傷の内容、程度、治療経過に徴すると、原告が氷見市民病院で最後に受診した日である昭和四九年九月六日の時点では原告の本件事故による後遺障害はほぼ固定し、原告において後遺障害の内容程度を予測することができたと認められるので、右時点において、原告はその受けた損害を知り得たというべく、原告の被告らに対する損害賠償請求権の消滅時効は右時点昭和四九年九月七日に進行を開始したものと認めるのが相当である。そして、原告が、昭和五一年七月一五日に本訴を提起したことは記録上明らかであるから、原告らは、被告らに対する損害賠償請求権の消滅時効が完成する前に本訴を提起したものと認められる。

したがつて、被告両名の時効の主張は理由がない。

六  損害の填補

原告が、本件事故に関し、被告会社より四七万九四二〇円、自賠責保険より三九二万円の支払を受けたことは当事者間に争いがない。

七  弁護士費用 二五万円

本件事案の内容、審理経過、認容額等に照らすと、本件事故と相当因果関係のある弁護士費用の額は二五万円とするのが相当であると認められる。

八  結論

以上のとおりであるから、本件損害賠償として、被告らは、各自、原告に対し、二七五万六九五九円及びこれに対する本件事故の日の後である昭和四八年二月三日から右支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払義務があるから、原告の本訴請求は右の限度で理由があるのでその限度で正当としてこれを認容し、原告のその余の請求はいずれも理由がないので、失当としてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を、それぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 弓削孟 佐々木茂美 孝橋宏)

<省略>

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